本を通して、自分では経験しにくい世界を疑似体験する

「デフ」という言葉を知っていますか

最近、ニュースなどで「デフスポーツ」「デフリンピック」という言葉を目にする機会が増えてきました。「デフ(Deaf)」とは英語で「耳が聞こえない」という意味で、そこから聴覚に障害のある人、聞こえにくさのある人たちを表す言葉として使われています。

「きこえない・きこえにくい人のためのオリンピック」

そしてちょうどこちらを書いている2025年11月、「きこえない・きこえにくい人のためのオリンピック」であるデフリンピックが東京で開催されています。(2025年11月15日~25日)オリンピックと同じく4年に一度行われ、実はパラリンピックよりも歴史が長く、今年で100年の節目を迎える国際的なスポーツ大会です。

デフスポーツのルールは基本的に一般競技と同じですが、競技中の合図をスタートランプや旗などを使った視覚による情報で行うなど、選手たちが最大限パフォーマンスできるような工夫が随所にあります。

デフバドミントンが舞台の舟崎泉美『聞こえない羽音』

デフリンピックの正式種目のひとつに「デフバドミントン」があります。今回紹介する小説の一つ、『聞こえない羽音』は、この競技を題材に書かれた物語です。

作者は実際にデフリンピック日本代表選手や現役のデフバドミントン選手、その指導者のみなさんに取材を重ね、そのみなぎる活力がどこからくるのかと筆を取ったそうです。

多くのスポーツは”音”を前提に成り立っている

主人公の涼宮花音(すずみやかのん)は中学2年生。小学4年生のころから耳が聞こえにくくなり、徐々に日常の音が遠のいていく中で、それでも大好きだったバドミントンが心の支えになっていました。

しかし決定的な出来事があったのは、小学校最後の大会。ずっとダブルスを組んできた親友の奈子の声が、コート上でのここぞという場面で聞こえず、ふたりの夢だった決勝の舞台を逃してしまいます。

シャトルの羽根が空気を切る軽やかな音、コーチの指示、仲間と息を合わせるための掛け声、、実はスポーツの多くは“音”を前提に成り立っていることに気づかされます。

目を背けてきた「聞こえないこと」と向き合う

自分だけが取り残されるような感覚、聞こえないことを周りの人に説明する難しさ、どんどん離れていく友人たちとの距離。今まで当たり前にできたことができない辛さを抱えながら過ごす日々の中、中途失聴の人が集まる会を知って参加したことで、デフバトミントンに出会います。

両親に内緒でデフバドミントンに通う花音は、同じ中途失聴を経てトップアスリートを目指す凜さんや、生まれつき耳が聞こえない同い年の男の子の一颯(いぶき)と出会い、これまで目を背けてきた「聞こえないこと」と向き合うことになります。

取材が生むその場に立つ人にしか見えない景色

本作の魅力の一つは、作者の舟崎さんの丁寧な取材があったからこその臨場感です。

デフバドミントンの選手は、音に頼らずに、すべての判断を目から判断します。ダブルスではパートナーのプレースタイルや特徴の深い理解が必要で、コート上でスムーズにコミュニケーションを取るためにも連携の確認には相当な時間を費やすそうです。

本作のなかでも、コート上のサインや試合中の張りつめた空気など、一つひとつのシーンが細やかに描写され、音以外のものでこんなふうに世界を感じているのだと読者は主人公の視線で物語を追うことができます。

不安に向き合う勇気

舟崎さんは、本書のあとがきでご自身の体験を花音に重ねながら、不安から目を背けるだけでなく向き合うことの大切さを改めて語っています。花音が再びバドミントンに夢中になっていく姿は、聞こえる、聞こえないという枠を超えて、「不安に向き合うとはどういうことか」を改めて考えさせてくれます。

自分が変わることで未来を向いた花音に、一歩を踏み出すための勇気と気づきをもらえるはずです。

「突発性難聴」に向き合う少女の物語:森埜こみち『蝶の羽ばたき、その先へ』

聴覚にまつわる作品として、森埜こみちさんの『蝶の羽ばたき、その先へ』もぜひ紹介したい本です。

こちらは「突発性難聴」に向き合う少女の物語。ある日突然、片耳が聞こえなくなる―子どもにとってはもちろん、大人でも受け止めきれないほど衝撃の出来事です。

本を通すことで「理解する」のではなく「感じ取る」 形で伝わる

突発性難聴を言葉で説明しようとすると、症状はともかく、その辛さや抱える困難さはなかなか伝わりません。でも本を通すことで、主人公の心の揺れや不安、周囲の人間関係の変化を物語として体験できるため、「理解する」のではなく「感じ取る」 形で伝わります。

世界広がる読書の環境作り

わたし自身、こうした本を読むたびに思うのは、「本を通して、現実には経験しにくい世界を疑似体験できる」という読書の力の大きさです。読書量の差がそのまま教養の差に直結するわけではありませんが、子ども時代に触れる本は、見たことのなかった新しいものへの扉であり、確かに感受性の幅を豊かにしてくれます。

ただ、そもそも本を読む習慣がない子にとって、この疑似体験の入口に立つこと自体が難しいこともあります。だからこそ、そばにいる大人が良い本をさりげなく手の届くところに置いたり、一緒に読む時間を作ったりする意味は、とても大きいのだと思います。ぜひこの機会にご家庭の読書環境を見直してみてくださいね。

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